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2016年7月

2016年7月29日 (金)

ものへの愛着

 午前中に仕入れと仕込みをすませ、今日はこれからフラメンコのレッスンへ。
ここ3年着続けているレッスン用のTシャツがあるのだけれど、先週踊っていたら脇が破れていることに気づいた私。鏡に映る破れた脇の下、、、ああ恥ずかしいわぁ~と、ちょっとだけ思ったけれどそんなこと思っていたら踊りに集中できないので、見て見ぬふりしてその日のレッスンは終わった。
ところが今、そのTシャツをあらためて見てみたところ、思ってた以上に派手に破けてるじゃねーか、しかも両脇。こんなかっこうで私踊ってたのねと思ったら、きゅうに恥ずかしくなってきて今あわてて繕いました。
 Tシャツ1枚くらい買えばいいじゃん って話なんだけど、なんか捨てられないのよね。このTシャツには、がんばったり落ち込んだり乗り越えたりしてきた経験が沁み込んでる。しかもこれを着るとヨッシャ!みたいなフラメンコスイッチも入ったりする。
色もすっかり黄ばんでるんだけど(汚くてすみません)、もうすっかり自分の体の一部みたいになってるので、なかなか手放せない、、、。
 仕事でキッチンに立つときもこれと一緒。白シャツにエプロン というのが私の定番。お客さんに「ママはいつも同じかっこうしてるよね」って言われるんだけど、このスタイルじゃないと気持ちが入らないのよね。さすがに毎日のことだからシャツは3枚を日々ローテーションして着てるんだけどね。もちろんおしゃれもしてみたいって気持ちもある。でも仕事のときは仕事に集中したいので、そのほかのことで無駄な頭を使いたくない って思っちゃってる私は、つまりめんどくさがり&中年おばさんのあかしってことなんだろうけど、、、。Tシャツもこれと同じなんだと思う。
  もうおばさんにもなると、おしゃれ心もどんどんなくなってきて、いかに楽で快適か というほうが優先になってくる。ウエストゴム最高。もうそれでいいかなとも思う。

 でもさすがに破けたTシャツは、新調したほうがよさそうだと、お裁縫しながら思いましたよ。思い出とさよならして、新しい1歩を踏み出せということなのかも知れないな。モノには人間のいろんな気持ちが乗るんだな。
今日が着納め。思いっきり踊ってこよう。もうどれだけ破けたって平気だもーん。

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2016年7月28日 (木)

女子酒場

 一週間が束みたいに過ぎてく。気づけば週の後半戦。最近、呼吸が浅くなってる気がする。
こういうときこそ、スピード調整したり見直してみたりするのって大事!っていうのは、もうやめた。こういう時期もたぶん大事だと思うので、今はこのスピード感を楽しもうと思う。忙しいというより、自分で自分をせかしている感じがする。何を目指しているのかどこにむかっているのかなんて分からない、ただ自分の尻をぺんぺんしたい時期なんだと思う、私。

そのうち真逆の時期がやってくるだろう。家事を丁寧にしたり、読書したり、今後のことを考えたり、、、、。心にゆとりができる時期だ。
その波がくるまで、とりあえず突っ走ってみよう。

 ゆうべはめずらしく、女性のお客さんばかりが4人そろって(私も含めたら5人)、カウンターのすみで相方さんは小さくなっていたけれど、女子だけの討論会みたいになったのが楽しかった。
その中のいちばん若い20代女子が、女性はもっと討論すべき みたいに言っていて、彼女が海外生活が長かったこともあるけれど、討論イコール言い争いではなく自分の意見を周りに表現することだと言っていて、なるほど~と思った。これって、おしとやかでおくゆかしいを良しとする日本人女性にとっては、いちばん苦手な分野だと思う。だけど、こうやって時代は移り変わっていくんだなと、明るい気持ちさえした。昔の良さを温め育んでいくことも大事で、ただそこにしがみつくのではなく、新たな時代の流れに自分自身をカスタマイズしていくことも大事なんだなと、20代の彼女から教わった気がした。
 たまにはこういう話題でお酒を呑むのも、なかなかいいね。

 

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2016年7月26日 (火)

スープカレー日和

今日は食いしん坊の話。
先日、スープカレーなるものを食べた。実はずっと気になっていたのよね。
まずびっくりしたのが、そのお店の入口に「今日は○○スープの味に納得がいかないのでお出しできません。こちらだったらご用意できます」みたいな内容が書いてあって、すごいと思った。料理人はこうでなくっちゃねと、自分の身も引き締まる思い。味の期待大だ。

そして期待通りの美味しさだった。美味しさもさることながら、作る人の気持ちが入っている、っていう味だった。ひとことでいうとやさしい味。
もうここ最近は“やさしいもの”がいい年頃。ガッツリ系より体に沁みるのはこっちだと思う。べつにガッツリが嫌いなわけじゃないんだけど、体が無理してる感じがリアルに分かるので、おそらく今は欲していないんだろうな。食べたあとに必ず体調悪くなるからつまりはそういうことなんだろう。
かといって、なんでもかんでもヘルシー派っていうのも好きじゃない。まぁいろんなものを本能にしたがってまんべんなく食べるのがちょうどいいんじゃないかな。深夜のカップラーメンだって屋台のフランクフルトだって大好き。
 たまにこういう、きちんと手作りしてるお店のものを食べると、勉強になるし(味というよりお店の姿勢)、作ってみたい!と思うし、刺激満載なのがいい。ときどき食べ歩るのは大事だな。
 それでもって、このお店の感動ポイントはなんと味だけでなく、スタッフさんの接客も独特だったとこ。
個人のお店にしてはめずらしいんじゃないかな~ってくらい、ファーストフード店の店員さんみたいなマニュアル接客。そのテンションがまた、ものすご~くハイな感じだったから、おばさんとしてはどう付いていっていいものやら、どきまぎしてしまった。でも、愛想がない接客よりは、こっちのほうがずっといいけどね。
ほんと、いろんなお店があっておもしろい。

 そしてそして、今まさに私の中でもスープカレーブームが起きていて、午前中も仕込んできたとこ。あの、お茶漬けみたいなサラサラ感はお酒のあとにもよさそうな感じがして。
そして私がお店で食べて思ったのは、スープの上にトッピングしてあるゴロッとした野菜たち、見た目が豪華なのはいいのだけど個人的には食べにくいな~と思って。スプーンとフォークだけじゃちょっと食べにくいと思う。ナイフかお箸がないと食べられないのよ、おばさんは大きなお口が開けられないからね。
などなど、呑んで酔っ払ったあとにも、スプーン1本で食べられるようなスープカレーを、今試作してるところ。
料理って、味とか見た目とか、、、それだけじゃないんだよね。私も日々お勉強中。

 

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2016年7月25日 (月)

料理への想い

 ご縁をいただき7月の上旬に、名古屋市の児童養護施設にてこども料理教室をさせていただきました。あれから日にちも少し経ってしまったけれど、今現在、自分の中にある気持ちを書き留めておくのは大事だと思い、ペンをとることにしました。

 だいぶ前に下見もかねて施設の訪問をさせていただいたことがあった。外で元気に走るまわるこどもたち、台所で宿題をする子たち、リビングで寝ころがってテレビを見てる子たち、、、その風景は普通の家庭の子たちとなんら変わりなく見えた。
ここでこどもたちと楽しく料理ができるぞ!と、なんとなくその楽しい絵を想像しながらその日は帰ってきた。
 しかしながらその帰り道、私の中に小さな違和感が生まれたのはたしかだった。それはあの子たちは様々な家庭の事情でここに暮らしていて、恵まれた家庭で育った子たちとはどこかが違うのではないかというのを、私が勝手にあの子たちをそういう目で見てやしないだろうか、という自分に対する違和感だったのだ。それはあきらかに、偏見というおとなの世界の歪んだ見方ではないだろうかと。
 そしてこの気持ちを抱えたまま、料理教室の当日を迎えることになった。
この日は自分でもどうなるか分からなかった。でもこどもたちに会う前に、いろいろに思いを巡らすことはそもそも違うと思った。
 いざこどもたちを目の前にすると、不思議なことにいつものメロディ先生が降りてきた。パクパクキッズのメロディ先生だ。あのメロディ先生のままだった。
こどもの中に入ると、自分の中のこどもスイッチが勝手に入る。いい歳して、メロディ先生の頭の中はこどもと一緒なのだ。
そしてやっぱり、料理教室のくせにあまり料理してるっぽくなくてほとんど遊びの延長みたいになる、というパターンもいつもの通りだった。
 料理を終えていちばんに感じたことは、こどもはやっぱりこども!ってことだった。ここに来るまでいろんな偏見を抱いていた自分が情けなくも思えた。こどもはみんな一緒だ。

 ただ、これはあくまでも私個人として感じたことだけど、ここにいるこどもたちは普通のこどもたちなら経験しなくてもいいような心の葛藤を、どこかでしているんじゃないか、ってことだった。(そもそも普通って何なんでしょうね)
あの子たちの表情の奥にあった薄いベールのようなものを感じずにはいられなかった。ことばで表すのはとてもむずかしいのだけど、寂しさとか、心の葛藤とか、そういうものだと思った。こどもたちとおしゃべりしていたとき、まるでその子自身の存在を「私、大丈夫だよね」みたいに確認するかのように私にすり寄ってきたり、座っていたら膝の上にちょこんと乗ってくる子もいたり、そんなときにこの子たちの言葉の奥にある何かを、どうしても感じてしまうのだった。

小さい子なら、葛藤を葛藤と思っていないかも知れないし、それがあたりまえだと思って大きくなることもあるだろう。中学生くらいになると、それが反発心となって表に出されることもあるだろう。いずれにしても、彼らには寂しさと戦わなくてはいけないという現実があることだと思う。彼らは寂しいと思っていても、寂しいとは言えない現実があるのではないだろうかと。それが幸せか幸せじゃないか、、、そういうことではなく。
ただ言えるのは、どんな子も幸せになっていい権利がある、ということだと思う。ここにいらっしゃった先生方は、まるでこの子たちのお父さんやお母さんのように接していて、ここにちゃんと幸せな家族の絵があるではないかと、思わず涙が出そうになったほど。両親がいながらも寂しくてしかたなかった私にとっては、なんだかとても考えさせられる経験でもあった。

だからって、この子たちのために私に何かできることはないだろうかと思っていても、何もできないのが現実だ。
でも、もしこんな自分でも何かの役に立てるのだったら、料理を通してこどもたちとつながっていけるんじゃないかってこのとき思った。
もともと料理がすごく上手になりたいとか、そういうところは目指していないから、(そりゃぁ下手よりうまいほうがいいに決まってるけどさ)料理っていう私の表現で、これからもたくさんのこどもたちと分かち合っていけたら、、、この経験を通してあらためてそう思ったのでありました。
私の中の料理に対する想いも、少しずつ変化し進化しつつある今日このごろです。

 

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2016年7月22日 (金)

フラメンコへ

 フラメンコのレッスンへ。
仲間がみんなお休みでなんとおひとりさま贅沢濃厚レッスン。師匠を独り占めできた。
とはいえ、一瞬の気の緩みも許されない(別に怒られるわけじゃないけど)という空間におのずとなるので、いい意味で緊張した。こういう緊張感、パターン化しつつある今の生活の中では必要だ。レッスンに行くまでは「あ~、電車に乗るのめんどうだなぁ」とか「疲れてるから休んじゃおうかな」みたいに毎回思うのだけど、レッスンを受けて帰ってくると体が軽くなっていたり、顔のむくみがとれていたり、そしてなにより気持ちのつかえがとれているのがすごいと思う。頑張って行ってよかったと思うのだ。

もうこの気持ちのやりとりを10年近く続けているのも、我ながらすごいことだ。
10年といえば、フラメンコではようやくスタートラインに立つ という位置らしいけど、なんて深いんだろう~って感じだ。私はまだまだひよっこ。もっともっと体の中にフラメンコが根付くように、大事に大事に自分の中にある小さなフラメンコ愛を育てていこう。
 レッスンの内容も、だんだん濃くなっているような気もするし。そして師匠は師匠であるにも関わらず、さらに上を目指そうとしていることもすごいと思うし、尊敬してしまうし。そういう師匠から教えてもらっている私はなんて運がいいんだろうと思う。のろのろペースの自分だけど、頑張ってついていこうと思う。そう思わせてくれる人って、あんまりいないんじゃないかな。私の場合、熱すぎるとかえって引いちゃうのだけど、師匠の場合は熱いけど、ちょっとそこに空間がある感じ。その温度についてくるかついてこないかは、あなた次第。でもついてくるなら私の経験を全部あなたにあげちゃう、くらいの潔さがあるのだ。そのへんが私にはちょうどいいのかも知れないな。
 もっとうまく踊れるようになりたいなー。

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2016年7月21日 (木)

自信て

 重たい話。
 日々、どんどん自分に自信がなくなっていくのを感じている昨今、このままでいいんだろうかとちょっと悩んでる。。。
自信なんかなくったって生きていけるという人もいるだろう。そもそもみんな自信なんて持ってないよという人もいるだろう。自信は自分で創るものだという人もいるだろう。
個人的に思うのは、自信てたぶん、自分自身に“あなたらしく生きていてもいいよ”という許可をおろしてあげることのように思う。

私の場合、ここがまずないように思う。あるときをさかえに、すべての自信を失った。こんな自分みたいな人間、自信なんて持っちゃいけない、生きてちゃいけないと、、、今も心のどこかで思っている。
だからいつもそのスレスレのところであぶなっかしく生きてる感じ。

 自分らしく堂々と生きている人を見るとすごいと思っちゃうし、その裏では自分なんてどーせ・・・みたいな嫌~な自分がいるのもたしか。その人と自分との温度差に、もーだめだと落ち込むことも多い。落ち込むとどんどん自分の殻に閉じこもっていくので、外の刺激が痛く感じる。刺激なんていらないよーって感じ。
嫌な人間になっていってるな~。
 でもやっぱり、今はとりあえず閉じこもるしかないように思う。ちょっと頑張って外に出て人と触れ合おうと思っても、なかなかうまくできない。だってあまりにも温度が違い過ぎるし。今の私は冷め冷めだ。こんなんじゃまわりに迷惑がかかってしまう。
 
 そんな感じなのだけど、今がどん底だとは思ってない。かといって上に這い上がろうとも思わない。じんわりじんわり元気になっていければいんじゃね、くらいに思ってる。というか思うようにしている。
最近思うのは、女性で自分と同じような人生の選択をしたり、自分みたいな心の経験をしている人も、きっとどこかにいるんじゃないかな、ってこと。
私もそうであったように、世間の目はけっこう冷たいのだ。批判されることも多い。当然だと思う。
でも、100万回自分の人生を後悔したって私たちは生きていかなきゃいけない。どーせ生きるのなら、哀しく生きるよりも少しでも明るい気持ちで生きたほうがいいと思う。その権利だけは誰も邪魔することはできないのだ。
もし、そういう女性がいたら、助けてあげることはできないけれど、想いを分かち合うことはできるんじゃないかと思って。

 そんなことを最近思ってたりするのです、、、。

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2016年7月20日 (水)

いろいろありすぎ

 久々の更新。
パソコンの調子が悪かったり、仕事がバタバタしていたり、理由はいろいろあるけれど結局のところ自分自身と向き合うのが怖かった・・・というのが一番大きいのかもしれないな。
ここ数か月、いろいろあった。心が折れそうになったり、初めて経験する感情に戸惑ってみたり、感動しすぎてどうしていいのか分からなくなったり。
いずれにしても、心を持っている人間というのはそれなりの反応やダメージを受けて、そこに自分がどう対応していくかというところがいちばんのポイントなんだろうな。
私の場合、反応受けまくりで(もともと敏感だし)今はヘロヘロ状態。まだここまでしかいってない。これを自分の中の変換装置でどうしていくかはまだ未定。そんな感じ。

 最近一番の出来事は、実家の父が倒れたこと。
先週あわてて病院に行ってきたけれど、父はもう別人みたいになってた。お腹に管を通しているみたいで、ベットに縛り付け状態。手も足も胴体も。こんな姿見たくなかったけれど、これを娘に見られている父は、もっとつらいんじゃないかなと思った。
それでも娘の私のことは覚えているようで声を掛けたら、それまで寝ていた父がパッと目を開けて「いつ来たんだ?」って、自分が病人であることを打ち消すみたいにシャキッとなったのでびっくりした。親っていうのは子の前ではいつだって親であろうとするんだな。なんだかすごく感動してしまった。
でもそのあと母がすかさず「もうジィジはボケちゃってるからねぇ」なんてイジワルっぽく言ったのもいつもの感じだったので、さすがだと思った。まったくこの夫婦のかたちはいつになっても変わらないな~と自分の親のすごさをあらためて確認した。
まぁ、父と母の仲の悪さったら昔から相当なものだったけど、このことで思春期は悩んだり苦しんだりハゲになったりいろいろあったけれど、今となればこれも夫婦のかたち ってことで誰もそこに文句は言えないんだよね。私もようやくこの位置に来たということかな。

そしてやっぱり父が倒れたことによって、こどもの頃の父との思い出がよみがえってくるというのもよくある話。(父まだ死んでないけど)
うちは家族でどこかへ行くっていうのはあまりなくて、父と母とそれぞれ別々で、私はその時々でどちらかについていく、というふうだった。母は日曜日も仕事をしていたから、小さい頃は父と手をつないで出かけた思い出のほうが多いと思う。
そういう思い出が、この時期はぽろぽろと思い出されるのが懐かしいような、ちょっと切ないような、心はそのたびに揺れまくってる。でもひとつひとつが宝物になっているのがすごい。過去っていうのは、いつしかそうやってキラキラしたものになっていくんだな。
 そんな父のことを想うと、今すぐにでも新幹線に乗って病院に駆けつけたいとも思うのだけど、いろいろ考えた結果、とりあえず今は、自分の目の前のことをしっかりやることが父のためにもなることだと私は思った。
今をがんばる、娘としてできることはこれしかないのかな。



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