2021年10月17日 (日)

今日の日記。

  寒くて目が覚める。夕べうっかり網戸のまま寝こけてしまったのだ。昨日と今日の境目は大きいなぁ。
あわてて窓を閉めて熱いコーヒーを淹れて、洗濯機回したり家のことを片付けていく。
窓の隙間から入ってくる風がとても心地いい。これも今だけ。あと数日もしたらすぐに次の季節がやってきそうだ。天気予報のお兄さんが木枯らしの話をしていたので、ここから急ピッチで進んでゆくことだろう。衣替えまだしていない。唯一タンスに入っていた長袖のシャツを羽織る。でも足はビーサン。

 午前中は宅配用のお弁当の仕事。緊急事態宣言が緩和されてからほとんど注文が入らない。そーだよね、みんなお外に行くよねぇ、こんなにいい天気だもの。など、ブツクサ思いながらもとりえず仕込みを進める。食べものってやっぱり生ものなので、仕込み過ぎてもダメだし、そのあたりのあんばいがとてもむづかしい。考えてばかりで動きが止まるのももちろんダメだ。とりあえず手を動かそう。
大きな食堂みたいなところで、じゃんじゃん作ってじゃんじゃん食べてもらえるような、そんなやり方にもあこがれるなぁ。まぁこのご時世だからむづかしいか。
 今回の流行り病のおかげで、いろいろ考えさせられたわけで。1年半前のあの感じってまた戻ってくるんだろうか。戻ってくるかこないかわ分からないし、そんなことをウダウダ考えていても仕方ない。今できることをやるしかないし、悩むくらいだったら思い切って方向転換したほうがいいかもしれない。やっぱりワクワクがないとワタシ、ダメだわぁ。

 お昼は、中途半端に残っていたお惣菜をつまんだり塩むすびを作って立ちながら食べたり。ひとりだから適当にすます。
自分で言うのもなんだけど、手作りの味ってホッとする。入っている材料が分かる安心もだけど、自分で作るから当然自分が食べたい味に仕上がっていることである。もしかしたらこれって、すごく贅沢なことかも。





 

 

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2021年10月16日 (土)

今日の日記。

 午前中、ちょっと遠くまで仕入れに出た。いつもの近所のスーパーもいいのだけれどさすがに毎日だと飽きてしまう。たまには刺激が欲しいからねぇ。
めずらしい食材を見るとどうやって料理しようかなぁと、いろいろ考えるこの時間がとにかく好き。見たことのない果物が売っていたりとにかく野菜でもなんでもびっくりするくらいの大袋で売っていて、外国人もいっぱいいて、ここはどこ?状態。
あれもこれもいろいろ買いたいけれど、うちの店の冷蔵庫じゃ入りきらない。そもそもワタシひとりではこの食材たちの面倒は見きれない。結局のところ、魚類とお肉類を少しづつと保存の効きそうなお野菜たちを買って出てきた。でも楽しかった。
帰りにくるくる回るお寿司屋さんに寄ろうと決めていたけれど(とにかく茶碗蒸しが食べたかったのである)相方さんが昼過ぎに仕事に出かけるとのことで中止。コンビニでゴハン買って大急ぎで食べて相方さんは出掛けて行った。うーむ、コンビニゴハンってやっぱりなんだかさびしい。味うんぬんというより、なんだかさびしい気持ちになるのだ。隣で、背中丸めてコンビニの小さいスプーンでカレーをかっ込んでいた相方さんの姿がなんともいえなかった。ちゃんとゴハン作れなくてごめんなさい。
 買ってきた食材を冷蔵庫にしまってアパートに戻ってきた。ひと休みしてこの日記を書いたら仕事場に戻ろう。食材たちが気になって仕方ない。手を入れてやらないと。


 今日はたしか天気予報では雨だったはずだけど、秋の空は気まぐれもの。このお天気と吹く風がもったいなくて2度も洗濯機を回した。物干し竿もただいま大渋滞。


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2021年10月15日 (金)

慣れたやりとり。

 先日休みの日に突然相方さんから「今から飲みに行こう」と電話があった。めずらしい。
その日は本当だったら相方さんの仕事仲間との飲み会があってそれが急きょキャンセルとなったとのこと。こういう急なお誘いは嬉しいわけなのだが、もうこっちはジャージ着てゴロンとふんぞり返って完全にオフモードのかっこう。すでにひとり晩酌を始めていたところだった。
しかも今はまだ世間様は時短営業中である。今から支度して飛んでいっても飲めるのは1時間ほどだろう。その旨を相方さんに伝えたところ、いきなりブチっと電話を切られた。
あり?もしかして怒られたということかと、すぐさま「今から支度して向かうよ」と伝えようと電話したのだけど出やしない。
ここで冷静に考える。怒らせてしまったこちらも悪い。がしかし、ブチ切るってなんだよ。電話出ないってなんだよ。心の中でコノヤロウを連呼しつつ「今から電車に乗ります」とメールを送った。
たしか、名駅って言っていたような。まぁ違ったとしても電車に乗って向かっているという姿勢だけ相手に伝わればいいかと、もしすれ違って合流できなかったとしても、それはそれで良いかと。
駅に着いてメールした。「どこのお店にいますか?」と。どうせ電話には出ないんだろうからメールで。
しばらくして写真とそのお店の地図が送られてきた。ずいぶん前に一度だけ行ったことのあるお店だった。だが、地図がまったく読めないバカチン女としては、それを見てもまったく分からず。グーグル先生に尋ねると教えてくれる方式的な地図であったが、過去に何度もこれでたどり着かない経験をしているワタシには、こんなの到底無理なのである。しかも、しかもだよ、このことを一番よく知っているのは相方さんなのだ。お主、ワタシがあえてできないこと分かっていてこんなことやりやがったな。キ〜〜むかつく〜〜。
とまあ、ここでワタシが怒ってしまったらおしまいなのである。地図が読めないから、とりあえず昔の記憶をたどりながらとぼとぼ歩き進んだ。
途中、雨が降ってきて心細くなった。それでも全然目的地は見えて来ず、ダメもとで相方さんに電話。そうしたらようやく出てくれた。
「今このあたりにいるのだけど、どっちの方向に歩いて行ったらいい?」
「だからー、グーグル先生の地図送っただろ」
「ワタシ、読めないの知ってるじゃん」
「できるようにならないとダメじゃん」
……(どうでもいいから早く教えろ)←心の叫び
気持ちあらためて、
「今近くに〇〇が見える。ここからどちらの方に向かったらいいのかな」
「かに料理屋を目指して、その先を右」
「わかった」とワタシ。
早く教えんかい!

というわけでなんとか無事に店に到着し、小さなカウンターの居酒屋さんで焼酎を2杯、相方さんは生ビールを2杯ほどをいただいて帰ってきた。何事もなかったように。

こういうのには慣れている。


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2021年10月14日 (木)

卵焼きちゃん。

 毎日作る卵焼きの良し悪しで、その日の気持ちのコンディションが分かる。
自分の作る卵焼きというと、出汁が多めのちょっぴり甘いタイプだ。その日の気分でネギを刻んで混ぜたり海苔をちぎって入れたりもする。シンプルなのももちろん好きなのだけど、切った断面が華やぐので最近はなにかしら混ぜて焼くのにはまっている。先日などは絹ごし豆腐を出汁の代わりに加えてやったら、なんともプルンプルンの仕上がりに。
毎日作る卵焼きだもの、作る本人も楽しまないとやってられない。それくらい卵焼きへの想いは特別なもの。

 フライパンがしっかり温まったのを確認したら薄く油を敷きそこへジュッと卵液を流し込む。ぷくぷく膨らむ大きな泡を菜箸の先でつぶしながら手前から奥の方へ卵を寄せる。この時点でうまくまとまらなくても大丈夫。
そのあと2度目の卵液をジュッと流し1度目の卵の下にも液をもぐらせてやる。頃合いを見て今度は奥の方から卵を巻いていく。右手と左手で息を合わせてエイっと畳んでゆく感じだ。このとき右手より左手のほうがポイントになる。そこに自分の呼吸をのせる。
その都度油を敷いてやって、これを5、6回繰り返すと出来上がる。出汁が多めに入っているので火加減は常に強めの中火くらい。途中目を離してしまうと色が強く入ってしまうし、火加減が弱すぎても卵の香ばしさが薄れてしまう。
なかなか主役にはなれない卵焼きではあるが、なかなかどうして奥が深いのである。

というわけなのだが、毎日こんなふうにうまくいかないのも卵焼きの性分だったりする。
何ゆえ、作る人間がそのまま映し出されてしまうのもこの卵焼きちゃんなのだ。
まず一番最初のフライパンの温めが足りなかったりすると、もうこの時点で「今日はアカンなぁ」となる。
たいがいそのようなときは、その後の工程もイマイチな感じになるものだ。最後までアカ〜ンってな感じでいってしまうと「今日のワタシ、調子悪いな」となる。心の乱れ精神の乱れが、目の前の卵焼きちゃんに投影されるのである。
また、こういうのもある。
最初はアカ〜ンだったけど、途中で我に返って気持ちを整えて最後は華麗なゴールを決めるパターンもあるのだ。途中ワタシがやったのは、たった一回の深呼吸である。深呼吸によって自分自身と向き合うのである。
だから最初から最後まで流れがうまくいったときというのは、なんだか朝から気分がいい。そういうときはたいてい無になっているんだと思う。気付いたらいい感じに仕上がってるじゃん、みたいな。


たかが卵焼き、されど卵焼きなのであーる。

 そして今日は後半戦で失敗しつつ、あぁもうダメかもと一瞬思ったけれど、なんとか最後は持ち返したパターン。
途中でよからぬ考え事をしてしまったのが原因だろう。

 さて。今日の後半戦もがんばっていこうっと。

 

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2021年10月13日 (水)

朝からびつくり。

 朝仕事に出かけようとするとアパートの階段で若い兄ちゃんが倒れていた。息しているか確認して何度も声掛けしてそれでも返答がない。かすかに酒の匂い。こりゃ酔っ払ってそのまま寝ちゃったんだなと思って、相方さんに話したところしばらく様子を見ようということになった。
昼の仕事を終えて再びアパートに戻ってきたら、兄ちゃんまだ寝てるじゃん。しかも体制変わってる。
うーむ、こりゃ風邪でもひいたら大変だ思い慌てて向かいの大家さんに連絡した。そのあとすぐ大家さんが「今行きますよー!」と飛んできて、兄ちゃんをやれやれという感じで部屋まで引っ張って行って、ひと安心ということになった。大家さんとのナイスな連携プレーであった。
久しぶりにこういう酔っ払いを見たし、おおごとにならずに済んでよかったけど、それにしても朝からびっくりな出来事であった。

実はそんな大家さんとウチとは、かつていろいろ揉めることがあったりしてちょっと複雑な関係でもあったのだけど、今回のこの一件でなんとなく距離が縮まったような気がした。いざっていうときに出る言葉とか行動には、何かを簡単に越えてしまう力があるのだなぁ。
常にそういう気持ちで過ごしていきたいものだけど、人って装ったり偽ったりごまかしたりしながら生きていかなきゃいけない動物だから、そこいらへんってほんとうにむづかしい。


天気予報には傘マークがついていたけれど、今日はまだ雨らしい雨は降っていない。どんより空の下を自転車こいで買い物に行ったり、仕事の合間にこの日記をつけたり、なんでもない日常を味わうことのありがたみよ。
もういい歳だしなるべく刺激のないよう、静かにひっそりと…という感じに過ごしていきたい。今までわーっという感じでここまできたので、その間に見落としてきたこととか、足元に埋もれていることとかを、これからひとつひとつ拾って見つめなおしていきたい。そんなふうに思うのだ。




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2021年10月12日 (火)

気持ち揺らぐ。

 朝晩すっかり秋めいてきた。アパートの前の街路樹も紅く染まり始めた。
毎年のことながらこの季節というのは心持ちも敏感になって、感情のコントロールもうまくいかなくなる。

 数日前に久しぶりにものすごく落ち込むことがあって「もうダメだぁ…」みたいになったけれど、そのまま放っておいたらいつしか薄まっていた。年をとるというのはこういうことなのだなぁと思った。
もう少し若いときだったら、過去の感情に必死になってしがみついていたものだ。悲劇のヒロインを演じる自分を、遠くから愛おしいと思ったものだ。青かったなぁワタシ…。
とにもかくにも、ひとつの感情にしがみつくというのは気力と体力がいるものだ。膝とか腰とか痛い痛い、なんて言っているワタシには、もうそんなの無理。湧いてきた感情には付き合うけれど維持はしない。かといって我慢もしない。我慢はカラダに悪いからね。
ワタシの場合は夜中であろうがなんであろうが、ガバッとタンスを開けて大きな鞄にガーッと詰め込んで「実家に帰ります!」宣言をやるのだけど、荷物を詰めているうちだんだん我に返ってくる。こんな時間に新幹線動いていないよなーとか、そもそも新幹線代もないくせに何してんだ みたいに。
そうすると自然に気持ちがすうーっと落ち着いてくるものなのだ。さっさと歯磨いて寝るべ となる。こういう部分は単純である。
まったくもっておばさんになっても、どこかまだ子どもじみた部分があってそのことでいろんな人たちに迷惑をかけてしまうことも分かっているのだけど、これがなかなか治らなくて。ほんと申し訳ない。。。


 自粛期間中はとにかく料理しまくってお弁当の仕事も自分なりに頑張った。
お客さんの前に立つことより、どちらかといえば人目のつかないところでコツコツやる仕事のほうが性に合っていると思った。
子どもの頃に一日中部屋に閉じこもって新聞紙やらティッシュの箱やらで工作していたあの頃の感触を少しだけ思い出したりもした。楽しいとかそういうのじゃなくて、とにかく無心になって没頭できることが自分にもあるんだってこと。



 

 

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2021年7月15日 (木)

久しぶりの日記で自分整理。

結局こうなる・・・。
気持ちの持っていき場がなくなると、やっぱりここにきてしまう。
文章書くことなんてまったく得意じゃないし好きでもないけれど、書くことによって自分客観視できるからここは大事。自分への愚痴を吐き出す場所でもあるし。

 ここ数ヶ月ずうっとモヤモヤしていた。まぁそもそもここ1、2年で世の中がガラっと変わってしまったこととか、それによって仕事がほとんどできなくなってしまったストレスとか、、、その時々の気持ちの整理もせずにズルズルとここまできちゃったこととか。いろいろ。

 浴びるくらいお酒呑んで寝ても、ぜーんぜん寝付けなくて 深夜のショッピング番組をたら〜っと見ていたら外が明るくなってきて
昼間はほぼほぼ横になっているから体はブヨブヨにむくんじゃうし。「もしかしてこれって更年期障害ってやつか?」などとちょうどいい言い訳を見つけたりしてね。
まぁとにかく原因の分からない不安に襲われっぱなしだった。

 世の中のせいにするのは簡単だけれど、だからって自分に何かが返ってくるわけではない。それは分かっているんだっ。


最近ワクワクしてないなと、ふと思ったりして、きっとこのワクワクこそが今の私を救ってくれるに違いないわ!と幾度思ったことやら・・・。
自分のワクワクのタネは知っているのよ、でも動けないの、最初の一歩が出ないのね。

などと、
完全に悪循環になっている自分であるけれども、
今はとくに目標も持たず、目の前にあることを丁寧にやっていくしかないかも。これが精一杯。
気合いなんて入らないし、そもそもどうやったら気合い入れられるのかわからなくなっちゃった。。。

 
 先日、久しぶりに次男に電話した。
社会人2年目の彼は一人暮らしの自炊生活を頑張っている。もっぱら平日は帰りが遅くなるとかでコンビニ弁当ですませていると言ってたけど。
「何か食べたいものある?」って聞いたら、びじきとかおからとかそういうものが食べたいと。
働き盛りの20代男子にしてはずいぶん地味だなぁと思いつつも、小さい頃兄弟たちがスナック菓子をむさぼる中、奴だけはおつまみササミとかさけるチーズとか、そんなシブいものをチョイスしていたのを思い出した。母ちゃん、一瞬だけあの頃にタイムスリップしてほっこりしちゃったよ。
そんな息子の声を聞いて、母ちゃんちょっとだけ元気になったみたい。

 今日はさっそく次男に送る用にと、ひじきの煮たのとおからさんときんぴらごぼうを作った。明日はひき肉を買ってきて彼の好きなハンバーグでも焼いてやろうかしら。

自分の場所ってここなんだな。気持ちの奥のほうにロウソクみたいな小さいあかりが灯る感じ。



 

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2021年5月11日 (火)

自転車おばさん

 5月に入ったとはいえ朝晩は肌寒く、衣替えも踏みとどまっている今日この頃。
新緑のまぶしさに見惚れつつも、現実を突きつけられると気持ちの奥がきゅーっと締め付けられてこのギャップがなんとも痛い。
どんなときも心を平穏に保つっていうのはやっぱり私にはできないや。

 好きな料理の仕事も、今のめんどうなこの環境のせいでまったくと言っていいほどできていない。けして自分だけではないし、みんな歯を食いしばって頑張っているのだろうけど、ここ数日"マジでこのままじゃダメだ!"という気持ちがきゅうに強まってきた。つねにソワソワしているし、変な夢ばかり見るし、居ても立っても座っても寝転がっても居られない感じ。
かといっていいアイディアが浮かんだわけでもないし。どうなってるんだ、私。ただただ自分の中身に寄り添っている、今。
若い時だったらこういうとき即行動に移したものだったけど、なぜだか今はサクっと動けない。もどかしいのう。


 
 最近自転車によく乗る。というのも、数ヶ月前に車を駐車しようとバックしているときに、同じ駐車場から出ようとしていた車がこちらに気付かずにバックしてきて私の車の前方に突っ込んできた。グニャ…っと、なんとも鈍い音がしましてね、それ以来運転するのがうっとうしくなってしまった。
今ではすっかり自転車おばさん。
今日も午前中買い物に行ってきた。川の向こう側に行くために地獄の坂を上り下りしたり、見ず知らずのおじちゃんおばちゃんと挨拶を交わしたり、お好み焼き屋さんのソースの匂いに誘惑されつつも、なんとか無事に帰ってきた。
今日は休業日ではあるけれど、じっとしていられなくて少しだけ仕事をした。手を動かすとふっと気持ちが今に降りてくる。これも不思議なこと。
そして仕事を終えて帰ってきた今、この日記を書いている。
お昼ご飯はどうしようか。ひとりなので作り置きの野菜スープを温めて、それと冷凍庫に眠っているパンでもあぶって食べよう。

 窓から入ってくる柔らかい風がなんとも心地いい、火曜日の午後。

 

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2021年5月 6日 (木)

感情は爆発だ〜

 ちょうど1週間前、ものすごく落ち込む出来事があり 荷物まとめて実家にでも帰るか…というふうになったのだけれど(帰る準備までした)
なんとか持ち直して今日に至る。。。

 なんというか…信頼していた人からの裏切りである。裏切りという言葉はかなりキツイけれど、まさにこれぞ裏切り!って言い切れるぞ、私は。
相手を責める気持ちももちろんあったけれど、どちらかといえば悔しさのほうが大きかった。自分を責めたりもした。相手がそう出てくるのには、こちらにも原因があるのではないか…と。
とはいえ、私はそんな心の広い人間ではない。今回のことは絶対に許せぬ!と、ただただひとりプンプンの日を過ごしたわけである。これはこれでかなりシンドイものであった。
 こんなこと久しぶりだった。まぁ歳も重ねてくると"怒る"という行為だってそれなりに疲れるわけである。なるべ〜く感情の浮き沈みのないように穏やか〜にやり過ごそうと心がけるものである。感情が無くなったわけではないけれど、滅多なことでは動じなくなるというか。頭のてっぺんにあった感情が、お腹の奥のほうで感じられるようになるというか。はたまた自分を客観視できるようになるというか。

 そんな自分が、こんなにも狂いまくっちゃうなんて一体どうしたものかと。自分で自分にびっくりしたわけ。血管の2、3本切れるくらいな勢いだったし。
あぁ、この瞬間湯沸かし器的な勢いって久々だわ!などとふと我に返ってみたりした。
 だけどほんとうに疲れましたの。
そしてとくべつ話し合いなどしたわけでもなく、日日薬でなんとかここまできたという感じ。

 自分が悪い、相手が悪い、その決着をつけるのが目的ではなくて、その先にある何かをお互いが認め合うことができるか…
というところがメインなんだろう。冷静な気持ちでみると、そういうことなのだろうな。
 
中年のいざこざは、若いときのそれとはまったく違っていて、めんどうなこともあれば逆にシンプルに乗り越えられることもたくさんある。
できるなら、めんどくさくないないほうがいいけれど たまには人間らしく生身でぶつかっていくのもいいかと、今回思いました。
だって、自分を知ることができたから。
 中年だってたまには感情をぶちまけてもいいんじゃないかしらね。

穏やかなことばかりではつまらないもの。


 


 

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2021年4月26日 (月)

花の季節に

 ずいぶん書いていなかった。
流行り病騒動から、もう1年以上も経つのだな。世の中の流れについていくのに息切れしそうになったこともあるけれど、振り返ってみたら自分の生活自体はそれまでとたいして変わっていないわけで。
そりゃぁ収入が減ったりなどの変化は当然あるけれど、今ここに息している自分がいるわけだから、それだけでありがたいじゃないの。
その上、もともとが引きこもりの性分の私にとっては、これでようやく変人扱いされなくなったというもの。(?)
どうしてテレビっていうもんは、あんなふうに人の不安をあおるような報道ばかりするんだろうねぇ。だからあまり見なくなったよ。

 今朝はいつもよりも早く目覚めたので家事の時間も前倒しできて、めずらしく丁寧にコーヒーを淹れてみたりした。しかもマグカップじゃなくてソーサー付きのカップで。そしてこういう時間こそが何よりもの贅沢だと感じる今日この頃。歳をとったということだろうか。
自分自身の欠陥部分ばかりに目がいって、勝手に落ち込んだり塞いだりしていた長〜い時期もあったけれど、そこから少しだけ先に行けた気がする。歳をとる意味ってこういうことなんだなと最近思う。
そしてきっとまた何かの拍子に、ヤバイ自分に返ったりするんだろうけど、その時はその時で対処できる前とは違う自分がいることだろう。


 アパートの前の街路樹が白やピンクに染まっている。ハナミズキだ。
花の季節は気分が軽くなる。
桜はすっかり緑まぶしい姿に早変わり。色鮮やかなつつじに、花壇には可愛らしいスミレやチューリップたち。人があの世にいくときは、きっとこんな景色に囲まれるんだろうなぁなどと、ふと思ってしまうほど。

 近所のおじいさんが、毎日かかさず花壇の手入れをしている。枯れた花がらをひとつひとつ取り除いていつも綺麗な状態を保っている。支柱を立ててあげたりお水をあげたりと、その姿はまるで可愛い我が子を育てているようで、見ていてなんともいえない気持ちになるのだ。
人生の先輩はやっぱりにじみ出ているものがすごいなぁと、ぺえぺえの私は思ったりするわけです。

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2020年11月14日 (土)

小さなお花の思い出。

 最近、買い物ついでに小さな花束を買う。それもほとんど無意識に買っている感じが自分でも不思議。

昔仕事していたレストランで毎日テーブルの上の小さな花を生けるのが私の仕事だった。小さなコップにかわいらしく生けるのだ。
買ってきたお花ばかりでなく、ときには野で摘んできたシロツメクサや野いちごなんかも生けてみたりした。野の花は買ってきたそれとは違って、素朴なのだけど生命力があった。私はどちらかというとこっちのほうが好きだった。
お花だけだとなんとなく味気なくて、当時お店の壁に這っていたアイビーの葉っぱなんかも一緒にコップに挿したりした。
 このお花が、お客さんを和ませてくれますよーにと若い頃の私はそんな風に、よろこんでくださるお客さんの顔を想像しながら毎日この仕事を楽しんでいた。
そう思うと、花って自分のためにというよりも誰かのためにあるものなかなぁ。


子どもの頃、この季節になると我が家のトイレには金木犀が生けてあった。
トイレというと微妙な場所ではあるけれど、あの甘い香りは今でも子どもの頃の思い出としてしっかりとインプットされている。

 こういってはなんだけど母はそもそも花など生けるような人ではない。と子どもの頃の私は勝手にそう思っていた。
毎日働きに出ていたから、家のことをやる余裕がないというか、とにかく忙しい人なのだ。座っている姿を見たことがなかった。
そんな母がたまに花なんか生けるものだから、母ちゃんどうしちゃったんだろ〜と子どもながらに不思議に思った。



でも
自分が大人になって、そういう母の気持ちがなんとな〜く分かって。
母の優しさ、家族への想いがこの金木犀だったのかな と。窓辺にひと枝の金木犀 というだたそれだけ絵が、今でも私の記憶の中にあるって、なんだかすごい。
もしかしたら母のことだから、ただなんとなーく飾ってみただけよーと言うかも知れないけれど
私にとってはこれも大切な思い出なのだ。

 今でもときどき花を飾りたくなるのは、当時の母と同じ気持ちになっているのかなぁ。
しかも飾るのは、決まってトイレなところも。



 

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2020年11月13日 (金)

輝ける若人たち。

 最近若い子たちに励まされることがよくある。
おばさんの落ち込み気味な空気を彼らは読んでくれているのかしら。。。

自分の息子と同じような年代の子からアドバイスをもらうことは、ちょっと恥ずかしい気もするけれど
とにかくおばさんとしては嬉しい。こんなおばさんのためにありがとうと。
彼ら彼女らは、ほんとうに純粋でまっすぐな気持ちをこちらに投げてくれる。しかもこちらが受け取りすいように優しく投げてくれる。
ちょっとぶきっちょな感じも可愛らしくて。
なので、おばさんとしてもそれを素直にキャッチできる。その瞬間ココロに少しゆとりがうまれる。


そもそも年令って関係ないのかもね。
年令を超えた人間どおしの付き合いって尊いなぁと、最近思うわけです。


 おばさんは君たちのために何ができるだろう。

若者から学ぶことは多いなぁ。


 


 

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2020年11月11日 (水)

ソフトボールのお姉さん。

 昨日は丸一日ひとりで過ごした。やっぱりひとりというのは味気なくて何をしていても面白味を感じない。
ゴハンもてきとうに作って食べてはみたけれど、何を食べても味がしないし。
そもそもゴハンって、食べてくれる人がいるからこそ作りたいっていう気持ちが湧いてくるものだと思う。ひとりのメシなんてそもそも心なんて込められるわけないものね。とりあえずコレ食べときゃいいか…程度。
 そういえば実家にひとりで暮らしている母も同じようなこと言ってた。「ひとりだと作りがいがないのよ」と。
まさにそうだな〜と思った。
まぁ、ひとり暮らしに馴染んでいる人だったら、そのメシを楽しむ術みたいなものを知っているのかもしれないけれど、自分には無理だなぁと思った。
とくに昨日は仕事がお休みだったので一度もキッチンに立つことなく、なんだかもぬけの殻みたいになってしまったことだよ。やっぱり自分には料理しかないのかな。

 そんなこんなで
今朝はいちばんで洗濯をすませ買い物に出かけた。今日は自転車で。
風はひんやりという感じで、冬のあのキンキンな感じでがなくて丁度いい。ウィルス対策のマスクも今はすっかり防寒用だ。

イチョウの公園の横を通ると、「ナイス〜!」と威勢のいい掛け声が聞こえてきた。
ナイス〜ってちょっと昭和だな…と思いつつも公園の中をのぞいてみると…
ソフトボールのお姉さんたちがカラフルなジャージに身を包み練習に励んでいるでは。
お姉さんたちは、私と同じくらいかもう少し先輩のように見えた。先輩といえども動きは学生のソフトボール部と変わらないのでは、というくらい迫力満点だった。そしてなにより皆さんが生き生きとしていて、単純にそういうのいいな〜と思ってしまった。そのエネルギーみたいなものとか、チームワークとか、そういう類のものとは縁のなかった自分なので、ただただうらやましかった。
キャッチャーミットにボールが「フンっ」って収まる音とか、バットにボールが当たったときの「カーン」っていう野球のボールとは違う感じの音とか…中学校の放課後の校庭に響いていた音と一緒だった。懐かしいなぁ。

そして今さらながらチームプレーっていう言葉に憧れを感じる。
スポーツはやってこなかったけど、音楽でいえば吹奏楽とかオーケストラになるんだろうか。感覚は違うけれどこちらもチームプレーだ。
な〜んにもやってきてなくて、個人プレーできてしまった私。
お互いの空気を感じ合ったり呼吸を合わせたり、そういうことって経験してみないと分からないと思うし、経験した人にしか分からない何かものすごいものがあるんだろうな。心が通じ合う感覚とかそこに震える感じとか。

 五十路のおばさんでも間に合うかな。そういうこと経験してみたいな


などと出来もしないくせに、そういうことをいちいち考えちゃう今日この頃…。



イチョウはほぼ満開になってたな。

 

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2020年11月 9日 (月)

少女たちのティーパーティー。

 小学校4年生のときクラスに友子ちゃんという女の子がいた。
友子ちゃんは手先が器用で図工の時間はいつも先生をも唸らせるほどのアイディアを発揮してクラスのみんなをびっくりさせていた。
そんな彼女は、普段はとてももの静かな子だった。目立つような子ではなかったけど、友だちはたくさんいるように見えた。席の近かった私とも、ときどきおしゃべりした気がするけれど、それほど印象には残っていない。顔も声も思い出すし、図工が得意だったことも思い出すのだけれど、実はそれ以上の何かがあるかといえば、とくに何もない。

 でもなぜふと、友子ちゃんを思い出したかといえば…


それは小学校4年の冬の帰り道、ランドセルを背負ったまま私たちは友子ちゃんの家にお呼ばれされた。友子ちゃんを含め5人くらいだったと思う。当時から友だち付き合いの薄かった私は、帰り道がたまたま同じ方向だった子たちと一緒に、ただなんとなーく金魚のフンみたいにくっついていったのだ。
そして"お呼ばれ"というよりどちらかというと、「友子ちゃんちで遊んでいってもいい?」という流れだったのかも知れない。思い起こすとたしか その女の子の中にマサミちゃんというクラスの女番長みたいな子がまじっていたのだ。マサミちゃんは女の子なのに声がガラガラでしゃがれていて"いかにも"な雰囲気の子だった。当時は誰も彼女には逆らえなかったので、おとなしい友子ちゃんもおそらく断れなかったのだろう。

 「おじゃましまーす!」と入っていくと奥のほうから「おかえりー」とやさしそうな友子ちゃんのお母さんの声が返ってきた。そしてなんといっても部屋が暖かい。小さい頃から鍵っ子だった私にとって、家に帰ると誰かがいる ということ自体が驚きだったし、まして帰宅するとすでにお部屋がぽかぽかに温まっているなんて天国みたいだった。
うらやましい というより、ただただ すごーい!って感動したのをおぼえている。

 友子ちゃんちで女子5人で何をして遊んだかといえば、それはまったくおぼえていなくて…

私が今でもしっかりとおぼえているのは、友子ちゃんのお母さんが「おやつよ〜」と台所に呼んでくれたときのこと。

石油ストーブの上にはヤカンがかかっていて、ヤカンの煙で台所の窓はくもりガラスみたいになっていた。冬の夕方は短くて窓の外はもうすでに暗くなりはじめていた。そういう景色も鮮明におぼえている。
夕暮れ時はどこからともなく寂しい気持ちが降りてくるものだったけど、友子ちゃんちの台所は不思議とそういう気持ちにはならなかった。誰かに守られているような、安心できるあったかい場所だった。

  そして何よりも驚いたのは、あつかましい私たちが突然押しかけたのにもかかわらず、テーブルの上には人数分のケーキ、そして見たこともないような素敵なティーカップが並べられていたこと。小学4年の小娘にソーサー付きのティーカップを出してくれるなんて、今思うと友子ちゃんっていろんな意味ですごい子だったんだなということ。だって、こんな素敵なお母さんのもとで育ったんだもの。
 ティーカップのおかげか、私たちはいつもよりお上品になれた。そして生まれてはじめてレモンティーの味を知ったのも友子ちゃんち。ソーサーの傍に、スライスしたレモンが添えてあるのを見たのも初めてだった。
なんだかちょっとだけ大人に近づいた気がした。


 そしてこの日以来、私は学校の帰りに友だちを誘い、自分の家でティーパーティーを開くことにした。友だちとよべるような仲の子はほとんどいなかったけれど、とにかく私はティーパーティーがしたかった。誰でもいいから来て来てと、なかば強引な感じで誘った。こんなこと以前の私だったらできなかった。
 ランドセルを床に置くと、おもむろに台所に向かいヤカンにお湯を沸かした。
そして普段は開けたことのないような茶箪笥から、人数分のティーカップを出した。もちそんソーサーも一緒に。
そして友子ちゃんちにあったのと同じ黄色い箱の紅茶のパックをそれぞれのカップにおとしヤカンのお湯を注いだ。
さすがにケーキは無かったので、どこからかの頂き物で置いてあった丸い缶に入ったクッキーを木のお皿に並べた。
誰を呼び、何をおしゃべりしたか、何して遊んだとか、そういうことはまったくおぼえていない。ただティーパーティーがしたかったのだ。
 その日を境に、このティーパーティーは毎日のように開催された。この時間がすごく好きだった。

このことに味を占めた私は、やがてお菓子も手作りするようになったりと発展(?)していくわけなのだけど、


ふと今朝、車を運転しながら思った。
私の原点みたいな場所ってもしかしたらここにあるのかなと。


 とくに料理を勉強したわけでもないし、とくべつ何か得意料理があるわけでもないし、なのにお店をしたいと思うのは

小学4年の友子ちゃんちの想い出が創ってくれているものなのかなって。


 あれからだいぶ歳をとってしまった今も、心ん中に生きているものがあると思うと
いまの自分にはちゃぁんと理由があったんだな としみじみ思うわけです。




 

 


 

 

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2020年11月 6日 (金)

イチョウ八分咲き。

めずらしく、歩いて近所へお買いもの。
空はうっすら雲がかっているけれど、寒くもなくちょうどいい感じ。コートじゃなくてカーディガンでよかった。


 何日か前に次男に電話して、何か欲しいものある?って聞いたら
レンジでチンして食べられるもの とのことだったので、なにかおいしそう冷凍食品でも探しにいこうと思って。最近は仕事が忙しくて料理する時間がなかなかないとのことだった。
それと、ちょこちょこ作りためておいた母ちゃん手作り冷凍食品も一緒に箱詰めすればいいかな。



  次男といえば、この春に就職して大阪で一人暮らしをしている。こういう状況だからほぼ在宅ワークみたいになっているらしいけど詳しいことは知らない。以前「毎日ひとりで家にこもっていてさびしくなったりしないの?」と 母ちゃんは心配して聞いたことがあるけど、「ぜんぜん」って。
すごいなぁ 強いなぁと息子を尊敬したのでありました。
なにせ、ぜんぜん知らない土地に行ってもちろん友達もいないだろうし、いざ就職したかと思えばウィルス騒ぎだもの。心細くなったりしないんだろうかとこちらは心配でしかたないわけです。
でも電話の声はいつもと変わらなくて、どちらかといえば一人暮らしを謳歌しているようで、それでちょっとだけ安心しました。
 料理も好きなようでパスタなんかもソースから手作りしているみたい。次男がそんなことできるようになったなんて、小さい頃の彼からは想像もできないけどね。
あれから十数年経ってしまったけれど、母ちゃんは今タイムスリップしているみたいな気分に、勝手になっているわけです。
電話の向こうの声はすっかりおっさんみたいになっているけれど、母ちゃんの中ではあの頃の次男としゃべっている感覚なんです。
おっとりした独特の間があって、おしゃべりの端々に相手を気づかうような余韻があって、「うん」と返事するところを「う」っていうところも
あの頃と一緒。

ほんとに何もしてあげられなくてここまできてしまったので、母ちゃんとしては大失格なのはわかってます。

なのでせめてもと母ちゃんの気持ちをときどきこうして箱詰めして送るんです。
そんなことくらいしかできなくてごめんねと。

 
 この間の電話のときは、なんだかちょっと寒そうにしていたから
「暖房とかあるの?」って聞いたら
「まだない」とのことだった。
さっさと買いなよ!ってとりあえず言っておいたけど
こういうどこかものぐさなところも、昔とぜんぜん変わってなくて
なんだかおかしくなってしまいました。



 買いもののあと
ちょっとだけ遠回りして イチョウのある公園の横を通って帰ってきました。
公園の周りをぐるりと囲う大きなイチョウの木。八分咲き(?)くらいです。
桜もいいけれど、イチョウの黄色もなかなかのものです。空がどんなに曇っていても、この木を見上げると眩しい光の中に自分が溶けていくようなそんな気になります。葉っぱとはいえ、まさに「咲く」という表現がぴったりです。

 木々が秋色に染まっていく様は
切なくも美しいものです。



 


 

 

 

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2020年11月 3日 (火)

休日の午後。


 休みの日の朝寝坊。今日は料理をしたくない。ということで、近所のショッピングモールのフードコートで夕方近くに遅めのランチ。夜ごはんも近いことなので気軽なものですませようと思って。本日の一食目。

祝日ということでこんな時間にもかかわらず席はいっぱい。小さなお子さんを連れた幸せそうなご家族やら、学生服から解放された中高生やらで大いに賑わっていた。ウィルスに怯えまくっていた数ヶ月前の光景とは全然違っていて活気にあふれていた。ようやく何かが戻ってきた感あり。

 ここにくると決まって食べるナポリピザ。生地のモチモチ感と小麦の香りが抜群なのだ。オリーブ、マッシュルーム、ベーコンののったピザを相方さんと半分こした。休日だからお許しをもらい白ワインもちょっとだけ。
昼間のワインはいつもよりも沁みた。一杯だけなのに頬がぽわっとした。人混みフードコートの片隅で休日の贅沢を堪能する48歳のおばさんでありました。

 ふと隣を見ると、小さなまあるいテーブルに4歳くらいの女の子がやさしそうなパパと向かい合って座っていた。パパはおもむろに茶色の紙袋の中から紙ナフキンを出し、それを女の子の前に敷いてあげた。そしてその上にいちご色のかわいらしいドーナツをひとつ乗せた。
それをなんとも嬉しそうな表情でほおばる女の子。パパの顔をじいっと見ながらニコニコしながら食べている。パパはアイスコーヒーをすすりながらそんな彼女を見守っている。まるで恋人を見守るようなそんな表情で。
 となりでピザにかぶりつきながらそんな光景になんだかほっこりしてしまった。。。

 
 息子たちがまだ小さかった頃、喉とか鼻とかが弱かった彼らは大きな病院の耳鼻科に通っていた。長男が治れば次は次男が、次男が治れば次は三男と。そんなのを繰り返していたからほぼ毎日のように朝一番で予約をとり病院に行き、そのあと保育園に送っていくというのがルーティーン。
まだ2、3歳の子どもにとって耳鼻科というのはちょっと特別な場所で、鼻を機械ですったり喉の奥に蒸気をあてたり、次男にいたっては耳の奥の膿を取るのに鼓膜に小さな穴を空けるなど、とにかく彼らにとっては怖〜い場所だったようだ。

 そんな彼らに頑張ったご褒美にと、治療の後に病院の一階にある喫茶店でソーダー水をご馳走してあげる というのがお決まりだった。病院内の喫茶店ということもあってたしか1杯200円ほどだったと思う。
そのお店では赤、緑、黄色のソーダー水があって息子たちはその日の気分で色を選んだ。色のついたシロップをただソーダで割っただけの飲み物なのだけど、子どもはこういうのがとにかく好きなのだ。
相変わらず病院は怖がっていたけれど、彼らにとってはこの時間が楽しみでしかたなかったようだ。
そしてその横で自分はただただそんな息子の姿を眺めていた。そんな時間が好きだった。慌ただしい子育てだったけれど、こういうのですべてがチャラになった。幸せの時間。
何十年経った今でも時々思い出しては胸がきゅぅんとなる。

 そんなのを、あの女の子ととお父さんの姿に重ねていたのかもしれないな。

もう2度と戻ってこない時間だと思うと、なおのこと愛おしくて。

でもそういう時間を経験させてもらったということは、人間としてとてもありがたいことなのかもしれないな。。。


 

 

 

 



 


 

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2020年11月 2日 (月)

秋深まりし。

 ほんとの自分って何?
ほんとの気持ちって何?

最近よく考えるのです。

 子どもの頃はこんなんじゃなかった。
両親に対しても友達に対しても、”まんまの自分”でいられた。それが普通だったし、そのことについて何も思うことはなかった。

いつの頃からだろう。

私は良い子のお面をかぶることを覚えてしまった。
“良い子”っていうのは、つまりその時々において都合のいい子、というもの。
そういう意味では 上手な子どもだった。
相手の顔色を見て行動することができたから、人から嫌われることもあまりなかったし親(父は他界したけれど)の前ではとりあえず良い子を演じることはできていたと思う(たぶん)。
心は泣いていても、笑顔で振る舞うことなど得意中の得意だった。

そのうち私にとってそのお面は、自分の身を守る武器みたいになって自分を奮い立たせてくれるものになっていった。
気づけば、お面の下の本当の私から目をそらすようになっていてそれが習慣みたいになって、あたかもお面の私がほんとの私だと思い込ませていた。

そうしたら
気づけばへろへろフラフラになっている自分がいるのです。。。

 そうやって何十年も来ちゃったから、いまさらどうもこうもないし、こういう自分を嫌いだと思いつつもどこかでは受けいれていたりもする。

なんでしょうか、、、、秋だからでしょうか(秋のせいにするのもいかがなものか)
こんなことをふと考えてしまったりするのです。。。

秋という季節には そういう匂いを含んでいるのかも。立ち止まって考えてみたり、自分の内側と向き合ってみたり。
自分の何かを変えるチャンスみないな時期かもしれない。



 今日も明日もバカみたいに楽しくって、怖いものなんかな〜んにもなかったあの子ども時代に
ちょことだけ戻ってみたいな〜と

最近ふと思ったりするのです。。。

 

 


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2020年7月15日 (水)

料理することしかできない。

 何日ぶりの晴れ間だろう。

いろんなニュースが日本を、世界を飛び交っている今、
気持ちは勝手に沈んでいってしまう。抗おうとすると逆にしんどくなる。
ありのまんまの今を受け容れていくしかないのかな。
ひさびさの日記の更新も、やっぱり病み気味になってしまうのだな。

 SNSを見れば、なんだかみんな活き活きしてる。
こういう状況の中でも努力したり前向きな気持ちで頑張っている人たちがたくさんいて
ただただすごいなぁという感じ。自分だけが取り残されているみたいでちょっと落ち込む。(だったらSNS見るなよって話)
そして自分もそんなふうになりたいなとちょっとだけ思うのだけど、だけどやっぱり無理だよなと諦めちゃう分量のほうが大きい。
 コロナでステイホームとなったときに
なんだかちょっとだけ気持ちが楽になったのは正直なところ。
だって 当の昔から私ゃステイホームしてるから。引きこもるのは得意だもの。

 お店の仕事も一時期はどうなってしまうんだろうと毎日心配しすぎて、十円ハゲもたくさんできたほどだったけど
なんとか少しずつ、前の温度を取り戻してきたのでよかった。(ハゲは治らず)
その中でも特に嬉しかったのは
営業自粛中にお弁当の販売を始めたときのお客さんの声だった。
「おいしかった」の言葉でどれだけ元気をもらったことだろう。どれだけ希望がもてたことだろう。
のんびりやなので数は作れないし、ちゃんと作りたいので時間もかかってしまうのだけど
食べてくれる人たちの顔を想像しながら作るあの時間はなにより貴重だった。
お酒を飲むところだから普段はあまり料理はしないのだけど、あの期間中は大好きな料理を思う存分できた。

 歳を重ねていくたびにどんどん内向的&引きこもり〜ヌになっていくのを自覚している今、
誰かのために料理することだけが何より自分の位置確認の手段になっているのかも。

高校生進学のとき、母親に
「料理の勉強をしたいからそっちの道に行きたい!」って人生初の自己主張をしたら、「そんなの恥ずかしいからダメよ。ピアノを頑張りなさい」って即座にかえされた。
だから私は料理をする仕事っていうのは恥ずかしい仕事だとずっと思ってきた。
でも。
私は今、料理の仕事をしているでは。たまにそのことを不思議に思ったりもするのだけど、しぜ〜んに流れてここに辿り着いた気もする。

人前で何かをするのは苦手だし、言葉で何かを伝えようとすると声がもぐって相手に全然届かなかったりするのだけど
料理することだけが私にとって誰かと繋がるためのツールなっているのかも。
どんなに小さな世界でも、その自分の気持ちを信じてどこまでもどこまでも深く掘っていきたい。自分のペースで。これからも。孤独に。

などと、日記を書きながら気持ちを整理していくことは大事だな。
ずっとモヤモヤしてました。。。


 



 

 






 

 

 

 

 

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2020年2月24日 (月)

あさくまのコーンスープ。

無性にあさくまのコーンスープが飲みたくなっていそいそとランチに出かけた。
ランチタイムはお肉料理を注文すればコーンスープを始めサラダやフルーツなどが食べ放題というシステム。大好きなコーンスープを好きなだけお代わりできるだなんて夢のようだわ。

 というのも、私にとってあさくまは子どもの頃に初めて家族で外食に行った場所。
明るいイメージのファミリーレストランとはちょっと違っていて大人の雰囲気が漂っていた。少し薄暗くてテーブルや椅子も深みのある色合いで、飾ってあるものや壁の風合いは和と洋が合わさったよう感じで子どもながらにかっこいい!って思っていた。
当時、毎週土曜日に通っていた英語教室がその近くにあったこともあって、帰りにはあさくまに寄ってケーキやアイスクリームを食べる というのもお決まりだった。父はタバコをふかしながらコーヒーを飲む というのもお決まり。
今もあるのかな、アイスクリームに花火がささっているやつ。弟があれを注文して目の前に運ばれてきたとき、びっくりして固まってたもんね。
そしてたまに晩ごはんを食べに家族で出かけたりもした。外食の味があまり得意でない母が、あさくまのサラダのドレッシングを美味しい美味しいと言って食べていたっけ。ちょっとセロリっぽい味がして私も大好きだった。
私はもっぱらここのコーンスープが大好きで必ず注文していた。コーンスープは大好きでいろんなお店で食べたけれど、やっぱりここのが一番。コーンの甘さがちょうどよくって、なにしろ濃厚。飲むというより食べるって感じ。

 そんな家族との思い出のお店の本店がなんと愛知県にあるということを知ったときはほんとにびっくりした。
千葉県の野田というところで育った私にとって、あさくまは野田にしかないものだとずっと思っていたから、まさか名古屋で再会できるだなんて思ってもみなかった。

 そしていちばんにその思い出のコーンスプーンをなみなみとカップに注いで、じっくり堪能したわけです。思い出のまんまの味。これぞあさくまのコーンスープ。わー懐かしい〜。
そしてそのあとサラダにあの思い出のドレッシングをかけて食べて、メインのお肉を食べたらもうお腹いっぱいという状態に。
コーンスープをお代わりする気満々でいたにもかかわらず、もう入らない…。(涙)
 
思い出はすぐにポケットの中から取り出せてあの頃にタイムスリップできるのだけど、知らないうちにこんなにも年とっちゃったんだぁと思うと、時の流れに空しさを覚えちゃうね…。トホホ。
でもまぁ、このべろはちゃんと覚えているんだな。そう思うとべろの記憶ってすごい。

今度実家に帰ったら母をあさくまに連れて行ってあげたいな。

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2020年2月20日 (木)

外時間。

ようやくキャンプに行けた。1ヶ月ぶりくらいだろうか。天気は雪 時に暴風。
前回は雨ザーザーで地盤が緩んでペグが抜けちゃうという騒ぎ。それにくらべたらずいぶんマシ。
そして前回同様、テントじゃなくてポールとブルーシートでの空間作り。ついにその域にいってしまった。もはやテントじゃなくて小屋である。
これのいいところは、安い費用でできてしまうのと翌日の片付けが楽ということ。
この時期テントは夜露と結露でびっしょりになる。これを乾かすのもひと苦労なのだよね。それにくらべてブルーシートは翌朝さっと干して雑巾で拭いたらすぐたためる。難点はなんといっても"ぜんぜん映えない"ということだろう。でもまぁそんなことはまったく気にしないので、このチープ感を楽しんでいたりもする。キャンプ場では逆の意味で目立っていると思う。

 簡易小屋なのですきま風もハンパない。底冷えもすごい。ダルマみたいに着込んでホットウイスキーで体を温める。ビールなんて寒くて飲めたもんじゃない。

夜には雪もやみ空には満天の星。オリオン座の中にあんなにもたくさんの星たちがいたことに驚かされる。
寒すぎて水道の水が凍っちゃったりお風呂も入れなかったりトイレまでやたら遠かったり、いろいろ不便なことはあるのだけどなぜかまた来たくなる。このいろいろめんどうな感じをわざわざ味わいたくなるのが不思議。
薪割りしている時間、火を見ているだけの時間がとても貴重なものに感じる。"生きてる"をかみしめてるんだろうか。
 それでもって朝がやってきて日常に戻らなきゃと思うとさびしくなる。これも毎度のこと。
長い瞑想から解けるみたいに。もうちょっと味わっていたいって思うのだ。

 そして帰ってくると、日常が少しだけ新鮮に見える っていうマジック。いろんな"便利"やいろんな"あたりまえ"をありがたく思えてしょうがない。

 外時間は私にとってリセットするためのスイッチなんだな。



 

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